創業明治26年より
京都市中京区にて電気設備工事 
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 第40話 釜山電灯会社 その1


 今回は、久しぶりに当社100年史からの話題です。

  話題の中心は電気工事そのものではないのですが、当時のことが良く分ります。当社2代目社長山科吉三の少年時代の述懐です。
骨休みにお読みください。
 
 釜山電灯会社

  帳簿を調べていくと、明治36年頃から、釜山電力会社の口座がいくつか見つかった。
 帳簿の内容から、資材を送っているだけで、工事を直接やったわけではない。父の友人で、横江川という方があり、あるいはその人が釜山電灯会社へ勤めておられたか、出入りしておられたと思う。
   その額を一、二記載すると、明治37年12月5日71円85銭、38年2月27日67円50銭、38年3月21日38円40銭、38年12月18日213円30銭、39年5月111円20銭などである。
  明治37年12月とは、未だ日露戦争の最中であるが、もう釜山電灯会社が出来ていたと見える。
  その後43年になると、横江川さんの息子の明さんに、忘れられない思い出が2つ3つある。
  明さんは私より4歳か5歳年長であるが、その方が三高へ入学され、私の家へ挨拶に来られたことがある。丁度その日の夕方、私の一中入学の発表があり、無事入学できたので、家へ入るなり、母親に合格のことを報告すると、母は丁度来客に夕食のもてなしをすべく、かまどに火を入れている最中で、母はかまどから目を離さず「それは良かったなあ。入ってから進級にすべっても目立たんけれども、入学のときすべると目立つからなあ」といったきりで、かまどのオキを落とすかどうかのタイミングをうかがっている。
 その時私は一寸がっかりしたが、昔の親は根性がすわっていて、今考えると、この方が頼もしい。その後、私は誰からも入学祝というのをもらったこともないし、当時はそれが当たり前であった。今日の親たちは一寸異常である。
 一中と三高は隣同士で、その後、明さんは苦学しておられるらしく、学習塾の公告ビラを一中で配りに来ておられるのに2、3回出会った。その前後に父親が死去されたので、やがて三高を中退して釜山へ帰られたと聞いた。
 当時は一中では4年になると、朝鮮へ修学旅行に行った。7泊8日で鴨緑江を渡って安東駅まで行くのである。

 

(この続きは次回に…)

             

 (当時の明治37年の帳簿に「釜山電灯」の名前が載っている)

 

 


                             (第41話をお楽しみに・・・)

 


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